最後の署長に赴任したのは、「平成」でしたが、任期中に「令和」となって、働きながら大学に行こうと思い、バイクを売ったお金をもって、長崎から出てきたのは、おおよそ45年前の「昭和」でした。
警察官になりたいという強い思いもなく、夜学に通うことが出来るという女衒(今から思えば)みたいな勧誘にあって、他の公務員を振って、京都に出てくることとなりました。
初任科というとても大学に通うことが出来ない環境で授業を受け、体育と言えば、ひたすら走り続けて、一日の授業が終われば、自習するより、「寝た方がまし。」という生活を過ごし、試験勉強で延灯する体力も無く、夜中にふと目を覚ますと6人部屋の同僚がだれもおらず、廊下を覗くと立たされており、延灯時間以降も勉強していたのでしょうが、「立たさせるくらいなら勉強させてやれば良いのに。」という思いを飲み込んだりしていました。
どうやらこうやらして、初任科を卒業して、同日に夜学にも通えるのかなと思ってみても、結局、また入校しなければならないので通えず、そのうち大学の試験にも通らないのでは無いかという不安もつきまといました。
何とか大学の試験に受かり、通い始めたところ、ただでさえ通うことが困難だった当番の警察官から、本部機動隊に異動となり、そこでまた、新隊員訓練という訳の分からない訓練を受けて、夜には手旗結索やら酒の強要やらで大学に通うことが叶わず、それでも訓練を受けている自分に「何してるん。」という疑問を持つ生活をしていました。
私の身上を理解してくれた機動隊に異動になるまで、入寮していた寮母さんのおかげで、学校に通える署に異動となり、三年越しに「これで何とか学校に行ける。」と思ってみたものの、巡査部長試験に受かったことから、管区警察学校に入校を命じられたのは、大学の最後の試験がある時期で、その冬までに単位を取得しなければ、大学を4年で卒業出来ず、何度も頭を下げて、試験を受けに京都まで帰り、それから管区警察学校に帰るということをしていました。
新隊員訓練期間中や三交代勤務の当番日には、大学に通うことは出来ませんでしたが、自分が生きている理由というのか、警察官をしているという理由を見出すために、4年で大学を卒業しましたが、実質は、3年も通っておらず、当然のごとく、授業内容なども覚えておらず、成績もそんなものでした。
これも組織は「身上把握の徹底」と言いますが、徹底どころが引継ぎや報告さえされてなかったために、このようになったのですが、そもそも「身上把握の徹底」は、不祥事、不適正事案の防止だけのためだったのだと思っています。
続きます。



コメント
現役PMです。
先輩の経験を楽しく読んでいます。
今後ともお身体に気をつけてブログ活動頑張ってください。
厳しい環境と思いますが、挫けず、信念を持って、活動してください。お体には十分に留意してください。