Eva(公益財団法人動物環境・福祉協会Eva)

これから進む道

思い

小学生

 私は昭和36年に福岡市で出生して、小学2年まで福岡県筑紫郡大野町(現大野城市)で過ごしました。当時は米軍のベースキャンプもあって、破れたフェンスから中に入ろうとして米国人に追いかけられたり、小学校まで8キロくらいありましたので、通学途中にザリガニを餌に牛カエルを釣ったり、ゲンゴロウやミズカマキリを捕って遊びながら帰っていました。家が遠かったせいなのか分かりませんが、一緒に帰る友達もいませんでしたし、同級生に石を投げられたり、自転車を盗まれたといった思い出しかありませんでした。

 小学2年のときに兵庫県尼崎市に引っ越ししたのですが、九州弁が抜けず、笑われながらも何とか溶け込もうと地元のリトルリーグに入ったり、林間学校などに行ったりしましたが、担任の先生による依怙贔屓で学級が崩壊しており、その先生はいなくなったものの、その反動で余計に学級が崩壊していました。

 小学5年のときに札幌に引っ越しして、また九州弁なまりの関西弁の変な子供ですから、ひとりでよくミニスキーなどをして遊んでしました。北海道の小学校の冬の体育の授業はスキーなのですが、経験もなく、全く出来ませんでしたが、同級生はスケートやスキーに誘ってくれて開拓の街だからかもしれませんが、変な子供でも受け入れてくれました。

 札幌では運動場のことを「グランド」と言い、運動場は「体育館」のことを言うのですが、最初は「運動場に集合」という校内アナウンスを聞いて、運動場に長い間、ぽつんと一人でいたこともありましたし、掃除の時間に女の子から「ゴミ投げといて」と言われ、「ここは3階だけど、窓からゴミを捨てても良いのかな。」と思って佇んでいると「投げて」と言った女の子から不思議な目をして見られていたのが印象に残っています。

 昭和新山が活火山であったり、支笏湖でひめたらが捕れたりとか、七夕にハロウィンみたいに子供たちが「ローソク出せ。」と言いながら、各家庭を回って、お菓子をもらう風習があったりといろいろな発見や経験が出来て、離れたく無い土地でもあったのですが、中学2年の夏に大阪の枚方市に引っ越ししました。

中学生から就職まで

 枚方の中学校は万葉集にも詠まれた鏡が池があるところで、一度住んでいた関西圏でもあり、溶け込むにはさして時間はかかりませんでした。しかしながら湿度の低い札幌から夏に転校したこともあり、すぐに熱中症に近い症状になったりして体がついていきませんでした。

 何とか札幌で続けていたサッカー部に入って体力をつけたりもして、当時、地元集中という制度によって近くの公立高校に合格しましたが、サッカー部はレベルも高く、黒帯だった双子の同級生に誘われて柔道部を創設して練習をしていました。

 家庭的な事情で、高校2年のときに住んだこともない長崎の公立高校の編入試験を受けて転校することになったのですが、編入試験に落ちると高校に通うことも出来ません。編入試験は一日行われて、昼に母親が作ってくれた弁当を食べようにもどこで食べてよいかもわからず、裏門を出た小高い丘があったので、階段の途中で弁当を広げて食べました。

 弁当を食べながら「落ちたらどうしようか。」「知らない土地だし、どこで働こう。」などとずっと考えていたことを覚えています。幸いに編入試験には合格したものの、おしぼり屋や居酒屋、パチンコ店などでアルバイトをしながら高校に通いました。

 大学にも行きたかったのですが、学費を支払うお金もなかったことから国立大学を受験したものの、不合格で浪人しながら大学を目指しました。しかし、当然というか学力が低下してしまい、「働きながら大学に行こう。」と安易な考えで公務員試験をいくつか受け、面接時にいつでも夜学に通えると返事をしてくれた警察に行くことにして、警察官を拝命しました。

 しかしながら「すぐにでも通える。」はずもなく、初任科等の入校教養がありましたので夜学には行けず、新任配置になって何とか通い始めたものの、なぜか警備部機動隊に異動となって、またもや新隊員訓練等によって、しばらく通えない日々が続いきました。しかし、夜学に近いの警察署に異動させてもらい、当番日を除いて、毎日通って、あと4単位取れば、4年で卒業するところまで来ました。

 そのころ、巡査部長試験に合格しており、何らの配慮もされず、卒業試験を受ける間に管区警察学校の初級幹部科への入校を命ぜられ、入校中に「前代未聞」と言われながらも、2時間かけて大学まで試験を受けに行き、また2時間かけて夜中に管区警察学校に帰るということをして何とか卒業できました。 

辞めるか

 所期の目的であった大学を卒業したことから、警察官を「辞める」という気持ちや選択肢もあったのですが、巡査部長になったこともあり、警察官を続けることにして、今年、最後までつとめて退職することとなりました。

 さて、警察学校の入校式では、警察本部長が挨拶をされるのですが、幹部としてよばれて入校してきた学生の前で、一言挨拶を求められたことがあります。そのときの言葉です。

 「はなむけの言葉は、あえて卒業まで取っておくことにします。あなたたちが進むべき道は苦しくて辛いことだけかもしれません。しかしながら横には同期生がいる。前には未来がある。後ろを振り向かず、直向きに進んでほしい。そう願っています。」

 本来、「はなむけ」という言葉は送別のときに使う言葉なのですが、新しい旅立ちですから、「あらたな門出を祝う気持ちを込めた挨拶」という意味で使わせていただきました。また、退職まで一年ありませんでしたので、卒業式にまた幹部としてよばれる可能性も無かったことから、そう表現しました。

 しかしながら、「卒業まで取っておく。」という言葉に反応した学校長から言葉をかけた学生の卒業式によんでいただきました。そのときに卒業生にかけた言葉です。

 「これからあなたたちは、警察官にならなければこんなことは言われなかったのに、警察官になってよかったのだろうかと何度も思うことだろう。しかし、あなたたちが選んだ道は間違っていない。そう思って、進んでいってほしい。」

同期生

 私を含めて私の同期は出来が悪かったのか、長らく「ああ。あの期か。」と言われるくらい史上最低の期と言われていました。それ故なのか結束力も強いものではありませんでしたし、卒業後の同期生会とか小隊会は40年近く経っても両手の指に満たないくらいしかやったことはありません。

 同期生の一人はいつも同じネクタイピンをしているのですが、それは私が初任科時代、一般の柔道の試合に出たときの参加賞で「今でもしてるんや。」と私に自慢げに見せてきたことがあります。「物持ちが良い。」のか「大事にしている。」のか良く分かりませんが、良いやつには違いありません。

 私の同期生は、自分のことを話すよりもなぜか「俺の同期には私がいる。」という自分の紹介の仕方をします。辞めるときこそ幹部になっていますが、初任科を出て、すぐとか、例え、その後であっても紹介された方は私のことなど知る由もないのに、なぜかそのような言い方を同期生はしていました。

 私がいた小隊の会が復活したのは、癌を患って余命わずかという同小隊の者がいて、彼と仲が良かった者が「俺では人を集めることが出来ないから。」という理由で私を訪ねてきたことからです。

 その後、私は警察庁へ出向することとなったのですが、そのときは他の同小隊の者が送別の小隊会を開いてくれて、餞別として薄緑色のネクタイをもらいました。ネクタイピンとは違って、今ではよれよれになっており、クリーニングに出した状態で洋服ダンスに眠っています。

 その送別会には、癌を患っていた者は出席できませんでしたし、東京で彼の死を知ることとなり、同小隊の者に「絶対に香典を受け取らせてくれ。」と依頼し、東京から帰ったときには奥さんを小隊会に招きました。

 私の部下として取調べなどをしてもらっていた同小隊の者も、病院に検査へ行ったまま帰ることはありませんでした。彼の葬儀には同期生もたくさん来ていて、さながら同期生会のようではありましたが、帰りに一人で地下鉄に乗っているときに泣いてしまい、地下鉄を降りても顔を上げることが出来ませんでした。

 同期生はいつまで経っても同期生です。当番が違ったり、係や勤務先が違ったりと一線に出ればほとんど会うことは無いかもしれません。でも躓いたときや苦しいときにはきっと支えてくれると思います。同じ釜の飯を食ったという言葉で一括りに出来るような関係ではありません。

 上司や同僚に相談できないことがあれば、まず同期生に相談してください。

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