「葉隠」という書物があります。
「武士道とは死ぬことと見つけたり。」の一節があると言えばお分かりでしょうか。
武士道精神とか自決に結び付けたりするときに使われていたのだと思います。
「葉隠」は肥前(佐賀県)鍋島藩士山本常朝が武士の心得を筆録したものですが、果たして本当にしに悟りを開いて死んでいけるのでしょうか。
山本常朝自身も、死ぬ間際はもがいてもがいて、「死にたくない。死にたくない。」と言って死んでいったと伝えられています。
以前にも記載したことですが、武士の生き方として、「生」と「死」は同じ概念で表されるので、生きるときも武士らしく、死ぬときも武士らしくということで、死ぬという生き様として「切腹」という儀式を行っていたくらいですから、現代の「死」という感覚とは異なっていたことは間違いありません。
生きることよりも死ぬことに対して意義を持つという感覚は到底理解し難いものだと思います。
記載した「葉隠」の一節だけを聞くと達観しているように思いますが、往々にして言葉はひとり歩きするもので、違う意味で伝わっていることもあります。「葉隠」の後段には、「我人、生きる事が好きなり。」と書かれてもいるのです。
現代において「死」を達観出来る人間はいないと思いますし、だからこそ、もがいて宗教にすがるのかも知れません。
何度も記載していますが、過去から未来という基準は、「時間」として表していますが、主観的なとらえ方をするものは、「とき」として表されています。
人生80年生きる方もいれば、40年も経ずに閉じる人もいます。人生の「時間」に関しては不公平だと思いますが、一緒に生きて来た「とき」は平等です。
だからこそ、一緒に過ごしている「とき」は楽しく過ごしましょう。
嫌々過ごしても、楽しく過ごしても同じ時間です。「楽しく」は決して、おもしろおかしくという意味ではありません。自分が納得して、達成感が得られる「楽しく」ですから。



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